こんにちは。
生まれも育ちも、札幌市中央区の桑園。
幼少の頃はピアノに通い、中学の頃の合唱コンクールや吹奏楽部での経験をもとに、19際の頃から楽曲制作などの機会をいただき、よさこい、CMの音楽制作や演奏活動、音楽学校で9年ほど講師活動を経て現在、大人たちの憩い、そして子どもたちの豊かな未来を願い、「音楽教室」と「学習塾」の運営を行なっています。
名前は「長谷川建(はせがわけん)」と申します。「建」は健康の「健」ではなく、建築の「建」です。
趣味は、主に子どもたちの写真を撮ったり、自転車に乗ったり、ドライブやスキーに行ったりすることです。
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2020・2021年と、コロナ渦でも楽しい時間を過ごそうと頑張っている子どもたちをどのようにサポートしていくことができるのか。誰もが想像できなかったこの状況に一番順応できているのはまさに「子どもたちである」と思います。
二児の父親として、私の子ども時代と比較して「やってみたこと」「思うこと・・・」など、綴ってみたいと思います。
下記の写真は、ほんの一部ですが、子どもたちと過ごした時間のイメージです。
1973(昭和48)年2月生、次男。両親と7つ上の兄、母屋に祖父母、伯母。
庭には、栗・杏子・クルミの木などがあり、春にはフキノトウ、夏になるとセミの穴、秋にはたくさんのトンボがやってきました。しかし、現在ではフキノトウとスズメがやってくるくらいで、そのほとんどを見ることがありません。家だけ時が止まっているかのようです。そういえば、ワラジ虫も見なくなったような気がします。もちろん虫はちょっと避けたくなりますが、今の子どもたちが知ることのできない環境がここにあったなあと思います。
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札幌駅に「そごうデパート」ができたのは丁度、私が小学1年生になった時でした。いよいよ取り壊されるということを思うと時の流れを感じます。
小学生の頃の桑園は、まだ踏切やアンダーパスがあり、線路に近づかないようにと学校や家庭でよく注意を促されていたことを覚えています。小学校の近くには生協があり、日常の買い物場所となっていました。文房具店や玉子の販売所などもあり、鉛筆や消しゴムなどを見にいったりするのも楽しい時間でした。
現在、公園は二つほど増えましたが、野球やボール投げができる場所が減ってしまったのは少し残念だなあと思います。たくさんの人が住む街ですので仕方のないこととは思いますが、子どもたちの元気な声が昔よりもずいぶん聞こえなくなってしまったように感じます。もちろん、要因が他にも、ゲーム機やスマートフォンなどの普及によりインドアになっているということも考えられますね。
当時、移動手段といえば「自転車」でした。桑園の端から端まで、毎日のように走っていたように思います。父と「あさり」まで行ったり、高学年の頃は許可をもらい、友達と「恵庭支笏」の方まで行ったこともありました。車との接触事故も多く見かける今ではなかなかできないことかもしれません。しかし、いろいろな経験ができない今の子どもたちを見ていると、もう少し自由に経験できる環境ができないものかと思います。「なんでもやって見なさい」と、日頃から息子たちに話しているものの、当の本人たちは、いろんな状況を感じ取ってか、臆病なことが多いなあと思います。
子どもたちが安全で住み良い環境を、小学校と地域の方など、もっと良い連携ができる何かを探っていきたいですね。
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母は琴の師範でした。私はピアノを習い、今の道に繋がったことは両親へ感謝しています。ただ、今の道への壁もまた、いろいろあったな・・・と思い出します。
小学校3年生くらいの頃、兄の弾く「ビートルズ」の曲で、楽譜にはない音が入ることによりカッコ良く聞こえるのが不思議でした。その音は「ドミナントセブンス」というものだったのです。その頃から少しずつ音の変化に興味を持つようになりました。しかし、そこから自身の音楽になかなか変化は訪れませんでした。
その頃の私は、テレビや漫画など色々な制限があり、友達が話している話題についていけないことが多くありました。両親から「人と違ってる方が良い」とか「自分らしく生きなさい」といつも聞いていて、良いことなのだと納得をしていました。しかし、その結果、当時のポップスはほとんど大人になってから知ることとなり、ゲームなども成人してから遊ぶようになりました。もっと早くにいろいろな道を選びたかったなあと・・・。そんなことをいつも思い、つい子どもたちに自分の考えを押し付けてしまっていないだろうかと思い返したりします。私は子どもたちに「考えさせること」を大事にしています。もちろん、考えすぎずに行動できることも大切です。しかし、聞いて解決しようとすると、その教えがいつの間にか押し付けられてしまっているかもしれないと考えます。たとえ遠回りでも、自身の考えから違いを発見してより良い方法を導き出してこそ、やりたいことへ向かう大人へと成長できるのではないかと思います。学習でも、やってみてから違いを見つける。音楽でも、やってみてから良い方法を探る。などなど、新しい発見も、そういったことから生まれてくるのかなと思います。私も新しいものに違和感を感じた時、ただ違和感を覚えるのではなく、しっかり扱ってみて調べたりした上で、子どもたちと話していきたいと思っています。
最近では多くの子どもたちに広がったスマートフォン。私はこう考えます。
「使う人」にならず「使い方を考える人」になる。使い方を考えるというのは「こんなことに使いたい」ではなく「便利な使い方を考える」ことが大切と思います。使い方によっては、便利で効率の良い生活もできたりするでしょう。しかし、ゲームをしたい。とか、〇〇を見たいとか、また、親が子の場所を把握できるからなど、単純にそういったことだけで持つには、子どもにとっては高価すぎるもののような気がします。しかし、新しい価値のある使い方を見つけていく機会にもつながる可能性があるとも思います。使う価値を親子で考えていくのも良いのかもしれません。SNSでのいじめなども多発していると聞くと、すぐに「スマホだから」と結びつけてしまいがちですが、そういったものがない時代から、いじめのようなことはあったこと、と、少し考えてみることも必要なのかなと思います。
子どもたちが生きる未来がどのようになっているかは分かりません。子どもたちの、今しかできないことをどのように経験させていくかを常に考えなければなりませんね。
2020年1月、東京に旅行へ行く頃、日本でもコロナウィルスのニュースが目立ち始めました。もちろんその時には今の状況を想像できなかったのは言うまでもありません。
瞬く間に感染が広まり、見えない敵と戦う日々が始まりました。子どもたちの行事もことごとく無くなり、大人たちも翻弄され「with コロナ」を意識するようになったのは半年くらい経ってからでしょうか・・・。
現在の教室の子どもたちの様子を少しお話しします。
教室に来ることで外に出るきっかけとなり、お友だちと話す機会がストレス解放に繋がっているという子どもたち。お家に誰もいない間に早く帰って何かをしたいという気持ちで集中力を発揮している子。好きな曲で音楽が楽しくなっている子。また逆になかなか集中できない子など。一貫して思うことは、外に出る機会が減っていることで変わってきたということだと思います。もともと外出の機会は減っていたと思いますが、コロナ渦で影響を受けている子も少なくないのかなと思います。もちろん、中にはマスクをしていても手洗いをしっかりしてたくさん行動している子も多くいます。しかし、どの子もきっと「こんな世の中は嫌だ」と思っていても、言わないことでそのことをしっかり受け止めているのだなあと感じます。だからこそ、子どもたちの様子をしっかり見分けていくことや、親子などの対話の時間を持つことはとても大切と思っています。
情報量の多い現在、目の前の画面で完結していまい、現実の世界から遠ざかってしまっていることが、コロナ渦で更に広がっているのではないでしょうか。なかなか難しい現状ではありますが、いろんな経験や親子のふれあいが、これからより一層、大切なこととなると思っています。
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